バッハの音楽は、ピアノを学ぶ上で特に重要なのですが、それをピアノ初心者、特に子供達に伝えるのは非常に難しいところです。先生の教え方が下手だと、子供がバッハ嫌いになり、その後、ずっと弾かなくなってしまうケースがあります。
実はかく言う私もそうでした。チェルニー30番を始めた頃からバッハのインベンションを始めたのですが、私の先生は楽譜通りに弾けたらOK、というスタンスで、特に曲の解釈の仕方を教えてもらえず、ただ言われた通りに機械的に弾いていただけだったため、バッハはつまらない、という印象が強くなり、大人になってからしばらくはバッハを自ら好んで弾くことはありませんでした。
アメリカへ渡って、別の先生から習い始めた時もずっとこの状態が続き、バッハを弾くことはなく、ショパンやベートーベンなどをひたすら弾いていました。
そんな私がバッハに目覚めたのは、日本に帰国してから。ドイツで研鑽を積まれた先生からレッスンを受けることで、バッハの良さが理解でき、自ら楽曲を分析するまでにのめり込んでしまいました。
その先生は、バッハの楽譜の読み方や解釈の仕方だけでなく、それを実際に表現するためのテクニック、表現の仕方など色々学ぶことができました。そんな経験を通して、自分の生徒さんにはできるだけ早い段階からバッハのようなポリフォニー(多声音楽)をやらせるべきたということの重要性に気づき、初級でも両手である程度弾けるようになった生徒さんには、年齢が小さくてもプレ・インベンションのような小曲から始めるようにしています。そこから、バッハのインベンションにつなげていますが、できるだけ早い段階で始めた方が良い理由を幾つかあげておきます。
1.ポリフォニー音楽への苦手意識がなくなる
この世に出ている音楽は、右手メロディー、左手伴奏の形態がほとんどです。これを「ホモフォニー」と言いますが、バッハの曲はメロディーと伴奏ではなく、両手共にメロディーとなります。これを「ポリフォニー」と言います。ポリフォニーは日本語では「多声音楽」と言いますが、バッハの場合は、右手と左手の2声のメロディーの構成だけでなく、3声、4声、そしてなんと、5声もあります!
たった2本の手でどうやって5つのメロディーを弾くことができるのか?!と思う方もいると思いますが、バッハを弾き続け、上級レベルになると2つの手、つまりたった10本の指で5つのメロディーを弾くことができるようになります。これができるようになるには、指1本1本が独立して各指が独自の役割を果たすようにできることが重要になります。
バッハをやらない人は、せいぜい左手と右手が独立して動けるようになる程度にしかならないので、メロディーと伴奏の形態の曲しか弾けません。従って、これだけを子供の頃からずっとやっていると、バッハへの苦手意識が強くなります。何故なら、ポリフォニーはホモフォニーとは全く違う指の動き方をするからです。ホモフォニーは、伴奏の部分はあくまでもメロディーに寄り添って、メロディーを弾き立たせるため、それぞれの手が主役・脇役として弾く形になりますが、ポリフォニーはそれぞれの「指」が声部(メロディー)の役割を果たし、対等な形で複雑に絡み合って演奏することになります。
従って、これを子供の頃から親しんでおくと、あらゆる形態の音楽に対応できるようになるだけでなく、運動能力が発達している時期でもあるため、比較的苦労しないで弾くことができるようになります。大人に比べて少しの練習で弾けるようになるため、ポリフォニー音楽への抵抗感がなくなります。(しかし、大人の方は理解力があるため、子供よりは習得に時間がかかりますが、良い先生につけば弾けるようになります。)
2.良い耳が鍛えられる
一般的に、ほとんどの生徒さんは、右手の音は聴いているけれども、左手の音は聴いていない状態でピアノを弾いています。これを言うと、「え!そうだったの?!」と驚かれる方が多いのですが、絶対音感がない人や相対音感でも優れた音感を持っていない人は、左手は実はほとんど聴いていません。
試しに、両手でピアノを弾きながら右手の部分を声出して歌ってみてください。それができるようでしたら、今度は左手の部分を声を出して歌って弾いてみてください。ほとんどの人は、右手は歌えるが、左手は右手の音につられて上手く歌うことができない、という方が多いと思います。これは、普段からホモフォニーの曲ばかりを弾いているため、主役であるメロディーの部分しか音を聴かない習性がついてしまったからです。実際に子供だちに、逆に左手がメロディーで右手が伴奏の形態の曲を弾かせると、右手の伴奏の音が大きく、左手のメロディーがあまり聴こえてこない演奏をしています。これは右手の音しか聴いていないからです。
ポリフォニーは、両手がメロディーのため、右手も左手もきちんと聴き取り、歌うように弾けないといけません。右手を弾きながら、左手のメロディーも弾くわけですから、左手の音も良く聴いていないと、ちゃんと弾くことはできません。それができるようになるために、色々な練習を重ねるわけですが、それができるようになると、右手も左手も両方の音が同時に聴こえるようになり、良い耳が育つようになります。
一方で、ホモフォニーの曲が中心のレッスンになると、これがなかなかできないため、バッハを弾かせても、右がメロディー、左手が伴奏のような弾き方になり、バッハらしい弾き方にはならないだけでなく、他の曲にも応用できません。
3.左右の手の技術レベルが同じになり、しかも高度なレベルになる
先ほども申し上げました通り、バッハは両手共にメロディーの役割をするわけですから、右手も左手全く同じ状態で弾けるようにならないといけません。ホモフォニーを多くやっている生徒さんは、右手と左手のレベル差が大きく、右手なら上手に弾けるが、左手が弱く、なかなか上手く弾けないケースが多いです。
そもそも、利き手が右手の人は、普段の生活でも右手を使うことが多く、左手はそれを補助するような役割で、右手ほど使わないため、どうしても右手よりも左手の方が弱くなります。しかし、ピアノが上手く弾けるようになるには、左右の手が全く同じ状態、技術レベルにならないといけません。それを補ってくれるのが、バッハの曲になります。
左右の手のレベルを全く同じにするには、他にもハノンを活用する方法がありますが、ハノンとバッハは全く違うものです。
ハノンの曲は全てユニゾンの曲ばかりです。ユニゾンとは、左手も右手もまったく同じメロディーで、同じタイミングに弾きます。そうすることで、左手も右手と同じ技術レベルを習得することができますが、各指1本1本が違う役割を果たし、音色も使い分けて2声以上のメロディーを同時に弾き分けることはできません。
もう少し分かりやすく言うと、バッハの曲は例えば、4声部の場合、左手の3~5番の指と1~2の指、右手の1~2の指と3~5番の指はそれぞれ違う声部(声楽で言うと、バス、テノール、アルト、ソプラノ)を担当することになります。たった10本の指で4声部も弾くなんて、こんな神業のようなことが一体どうやって出来るのか?!、とお思いの方もいらっしゃると思いますが、きちんとした先生について練習すると、それができるようになります。
ポリフォニーの曲は、それぞれのメロディーがタイミングをずらして出てきたり、時には同時に出てきたりすることもありますが、それぞれのメロディーの抑揚をしっかりつけて、またそれぞれの声部のメロディーの音色を使い分けて弾かないといけません。
そういう意味で、できるだけ早い時期からポリフォニーに触れると、指の独立だけでなく、それぞれの音色を表現する高度な技術を習得することができるようになり、表現豊かな演奏ができるようになります。
4. 古典派やロマン派の作品がきちんと理解できるようになる
クラシック音楽の起源はそもそも、教会音楽から来ています。最初は教会で歌う単旋律の宗教歌が中心でしたが、12世紀には複数のメロディーを重ねる技法(ポリフォニー)が出てきました。ホモフォニーが出てきたのは、そのずっと後の18世紀後半からで、ハイドンやモーツアルト、ベートーベン、ショパンやシューマンなどの古典派やロマン派の作曲家は皆、バッハの影響を受けています。彼らの曲のスタイルこそ全く違いますが、その中にはバッハの要素があらゆるところで散りばめられています。
皆さん憧れのショパンの曲の中にも、バッハの要素が沢山見受けられます。特にショパンは、バッハを敬愛していて、その音楽を研究していた、というのは良く聞く話です。特に「平均律蔵ヴィーア曲集」を愛奏しており、自分の弟子たちにも弾かせていたそうです。また、自身の演奏会の前には、自分で作曲した曲ではなく、バッハの平均律を練習していたくらい、ショパンはバッハオタクでした。
当然、ショパンの音楽にはバッハの要素が反映されています。従って、バッハを理解していないと、こういったショパンの曲だけでなく、他の作曲家の曲もまともに弾くことはできませんし、その音楽の深みも分かることは決してありません。
もちろん、自分はメロディーと伴奏だけのホモフォニーをやっていればいい、と思っている方は、バッハをやる必要はありません。また、クラシックの作曲家の中にはリストのようなメロディーと伴奏だけの曲もあり、リストだけをやりたいのであれば、バッハは必要ないでしょう。しかし、それでは自分の能力は広がりませんし、曲のレパートリーも非常に狭いものになってしまいます。また、ロマン派以降のスクリャービンやラフマニノフのような近現代の曲にもポリフォニーの要素がありますから、近現代の曲もやりたいのであれば、バッハ習得は必須となります。
以上の理由で、バッハを習得することで様々なメリットがあり、憧れの曲も弾けるようになるわけですが、ホモフォニーの曲とは違い、バッハは左右の手が全く違う動きをするわけですから、それだけに難しく、敬遠されがちです。しかしそれだけ難しいことに取り組むというのは、新しい脳を開発することであり、新たな可能性が広がるわけです。
そのことをいかに子供達に理解させて楽しく分かりやすく指導できるか、先生の力量がもっとも問われるところではないかと思います。最初は私も教えるのに苦労しましたが、細かく丁寧に指導すると、生徒さんもだんだんその良さが分かってくるようで、今ではポリフォニーの音楽は嫌い、バッハは嫌だ!という生徒さんは当教室では1人もいません。
もしバッハがつまらない、弾きたくないと感じている方、弾くのに苦労している方は先生を変えることをお勧めします。クラシック音楽の火では、音楽の父、と言われているバッハがきちんと指導できない方も残念ながらいらっしゃいます。今は体験レッスンもありますので、いろんな先生の体験レッスンを試させることをお勧めします。